日本被団協・濱住治郎さんと対談し、日本被団協の訴えと、ノーベル平和賞受賞の意味を考えました
みなさん、こんにちは。
一般社団法人かたわらです。
今年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が決まりました。一般社団法人かたわらでは、11月30日、日本被団協事務局次長の濱住治郎さんの講演・対談イベントを東京YWCAと共催しました。「核廃絶という人類の課題に向けた取り組みは道半ばだが、若い人たちと共に考える機運が受賞をきっかけに広がってほしい」と濱住さん。対談役を代表理事の高橋が務め、「新しいフェーズに入ったと思う」と語り、参加者のみなさんと一緒に日本被団協の取り組みを次代に生かす道筋を探りました。以下、イベントの様子をお伝えします。参加者の皆さん、主催の東京YWCA、協力の核兵器をなくす日本キャンペーンに感謝を申し上げます。(執筆・渡邉麻友、編集・高橋悠太)
ノーベル平和賞 被爆者が「隠され、無視された」歴史を直視
濱住さんは、ノーベル賞委員会が受賞理由で「広島と長崎の地獄を生き延びた人々の運命は長きにわたり隠され、無視されてきた」と言及したことに触れ、「日本被団協が1956年に結成されるまでの約10年間、日本や米国によって隠されてきた被爆者がいることを正確に理解してもらい、意味の大きい表現だ」と評価しました。受賞理由を述べたノーベル賞委員会のフリードネス委員長は39歳。濱住さんは「これまで広島や長崎を直接訪問したことがなくても、被爆者の記憶を大切に受け止めてくれたことがとても嬉しい」と話し、「新しい世代が核廃絶に向けて行動を始めていることを知ってほしい」と来場者約50人に呼び掛けました。
講演では、「ヒバクシャ」という言葉が世界に広まった経過や日本被団協の取り組みについて振り返りました。1977年に長崎で開かれたNGOによる国際シンポジウムでは、核の実相を伝えるために被爆者約8千人から聞き取った大規模な証言調査が報告され、「ヒバクシャ」として国際社会に知られるようになりました。「当初は証言できなかった多くの人が初めて自分の体験を語る機会を得られたことで、被害者としてだけでなく証言者として世界に認識された」と濱住さん。被爆者の医学的または生活上の実態を把握する動きが進む一方、80年には国の諮問機関が国家補償のあり方を巡って「戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民が等しく受忍しなければならない」との見解を示し、被爆者らの反発は強まったと言います。
日本被団協は84年、補償へ消極的な国の姿勢に対して原爆被害者に対する援護法の制定と核廃絶に向けた具体的な取り組みを求める「基本要求」を策定。基本要求は「原爆は、人間として死ぬことも、生きることも許しません」と述べ、「人間として認めることのできない絶対悪の兵器」としています。濱住さんは「策定から40年を経たが、再び被爆者をつくらない道筋に向けて基本要求は今後も変わらない」と話し、「被爆者らへの長年の調査に基づく先輩方の積み重ねが、原爆被害とは何かを伝える上で励みになっている」と感じています。パレスチナ・ガザ地区でイスラエル軍による空爆が続いている現状にも触れ、「子どもたちの夢がかなう世界であるには、平和でなくてはならない。目の前に大きな困難があっても、一人一人の力で世界はよりより方向へ形づくることができる」と訴えました。
記憶のない体験と向き合う「胎内被爆者」 若い世代と共に
濱住さんは、妊娠3ヶ月だった母親が被爆した「胎内被爆者」として自身や家族の被爆体験を語り続けています。対談では、濱住さんが50歳を過ぎて記憶の継承に取り組み始めた経過を振り返りました。
濱住さんの父親は8月6日、爆心地から約500㍍の職場で被爆し、母親は翌日から父を探すために市街地に入りました。浜住さんは家族から「市街地は死体の臭いが強く、父を見つけることができないまま帰ってきた」と聞かされたと言います。10年ほど前に浜住さんの兄が亡くなった折、父親の骨つぼを開けたところ、ベルトのバックルやがま口の金具、鍵が遺品として納めてありました。
一般社団法人かたわらの高橋さんから「自身の記憶がない被爆体験にどのように向き合ってきたのか」と尋ねられた濱住さんは、「家ではずっと父の遺影を見ながら育ち、きょうだいと話題にできないまま思いがたまっていった。聞ける限り父の全てを聞いてみようと決めたのは、自分の年齢が父が亡くなった49歳を超えたことがきっかけだった」と明かしました。
7人きょうだいで育った濱住さん。大学進学のために広島を離れた1965年ごろ、母親から被爆者手帳が母親から送られてきました。「母は口には出さなかったが、何かあった時にためにと送ってくれたのだと思う」。その後、家族の記憶を知ることに「時間がかかった」と言います。50歳を過ぎてから6人のきょうだいに1945年8月6日直後の様子を教えてほしいと手紙で頼んだところ、当時の様子を詳しく記した返事が届きました。原爆投下後、広島市中心部から約4km離れた自宅は被害を免れたものの、親戚ら4家族30人ほどが身を寄せていたことが分かりました。熱線によるひどい火傷や高熱や髪の毛が抜けるなどして苦しみながら亡くなった親族らの姿を知りました。
濱住さんのように胎内被爆者として認定を受けた被爆者の中には、妊娠初期に受けた放射線の影響で小頭症などの障害を発症したり、がんなどの病気に長く苦しんだりしながら健康や生活に不安を抱えて生きる人もいます。濱住さんがそうした記憶や経験を語り始めたのは、2003年以降。小学校での絵本の読み聞かせなどを通じながら「体験を話せる場や出会いが積み重なってきた」と言います。
高橋さんの「被爆体験を受け継いでいくことにどのような意味を感じているか」との問い掛けに、「自分の命は、胎内にいた3ヶ月で生きていたか死んでいたか分からない。原爆の不条理を伝えることで、子ども一人一人が生きることの尊さに気づいてもらうことを大切にしている」と話しました。
全国組織である日本被団協では、被爆者の高齢化が進み、被爆2世が活動を引き継ぐ県もあります。近年では、被爆当事者に限らず、核問題に関心を寄せる高校生や20代が活動を支える事例も珍しくありません。高校時代から被爆者から証言を聞き取ってきた高橋さんは「被爆者が蓄積してきた証言があったからこそ、自分の世代がさまざまな形で被爆者と接点を持ち、活動の広がりや人のつながりを生んでいる」。濱住さんは、新型コロナ感染拡大の最中にオンラインを通じて小学生から大学生まで約50人に体験を語った機会について「顔を見ながら一人一人から質問を受ける体験は、これまでにあまりなかった」とし、「核について考える機会が点から線へ繋がり、新しい動きが生まれてくるかもしれない」と期待を寄せました。
日本被団協のノーベル平和賞受賞理由では、「いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし、記憶を守る強い文化と継続的な関与により、日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる」とこれまでの活動が評価されました。濱住さんは「核兵器を決して使用させない今後の100年、200年を目指すために、一人一人が同じ思いでつながっていくことが大切」だと強調。高橋さんも「被爆者と市民が協働し、地域の足元から平和を形づくっていきたい」と応えました。
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